津屋崎人形の人形師歴を紹介します。
かつて4軒もの津屋崎人形工房があったため、お手持ちの津屋崎人形が誰の作で、いつごろの年代か調べたい方もいるかと思います。
ぜひ参考にしていただけると幸いです。
家系図は父である、六代目の活男が整理して残してくれていました。
(ありがとうおじいちゃん)
創業安永六年(西暦1777年)からの歴史です。
約250年の歴史となります。
今回、おじいちゃんが残していた家系図を整理してみました。
「なるほどこうなっていたのか!」と理解できました。
以下、筑前津屋崎人形巧房の系譜を紹介します。
目次
筑前津屋崎人形巧房の歴代人形師
初代卯七
江戸時代は公には苗字が無い時代です。
初代卯七は、息子である原田半兵衛とともに津屋崎人形を始めた始祖です。
- 津屋崎で良い土が取れたこと
- 津屋崎に九州最大級の塩田があり、栄えていたこと
土を求めて津屋崎に移住したのだと推測されます。
津屋崎人形のルーツを辿る旅二代目 原田半兵衛
初代卯七とともに、ろくろを使って生活土器を作りはじめ、だんだん人形を作り始めました。
そこには、古博多人形の影響を強く受けています。
おじいちゃんの残した家系図に記入されていたのですが、半兵衛さんの位牌には記入があるそうです。
代々鐘川性を名のるも原田次郎種直系図を受け其の後原田性と名のる
つまり、うちは当初「鐘川」という苗字にしていたが、「原田次郎種直の系譜だから、原田性に変えよう!」というとなったようです。
江戸時代の庶民は実は苗字を持っていたが、公称していなかった家も多かったらしいので、明治時代になったときに「原田」に変えたのでしょう。
- 原田次郎種直とは?
- 平安末期から鎌倉初期の武将、代々大宰府の軍事警察を管轄、居城は福岡県糸島市高祖山にあった高祖城
現在でも糸島市は「原田性」が多いため、初代卯七さんも糸島出身だった説が濃厚ですね。
しかし位牌に原田性のルーツを書き残すあたり、僕はこの先祖たちの血を間違いなく受け継いでいる実感があります。(笑)
三代目 原田半四郎
明治~大正にかけて津屋崎人形の全盛期となります。
そのため、半四郎さんから子供(音右衛門、長助、清次郎、半右衛門)の時代が急な盛り上がりを見せています。
津屋崎が塩の流通で最大に栄えたのと同時期のため、塩を運ぶ船による流通の利も大きかったと思います。
船に乗った津屋崎人形は、四国や九州に流通していました。
四代目 原田長助
長助さんの代で、津屋崎人形は兄弟で分かれて、1軒は直方へ転居されます。
3軒の津屋崎人形屋は最終的に4軒となります(全盛期)。
- 音右衛門~栄造
- 筑前津屋崎人形巧房(長助~徳十~活男~誠~翔平)
- 原田半蔵人形店(半右衛門~半四郎~半蔵~彪)
- 安兵衛~三右衛門
五代目 原田徳十
徳十さんは、長助さんの子ではなく、音右衛門さんの長男です。
そこからいとこ(長助さんの娘)との結婚という形で、筑前津屋崎人形巧房への流れとなりました。
六代目 原田活男
祖父になります。
戦争にも行って、戦時中〜戦後の時代は国鉄の運転主をしたことあったそうです。
若いころは美男子で、国鉄の車掌時代はおっかけのファンがいたとの伝説があります。(笑)
年を取ってからは学者肌で、津屋崎では町史の編成や、街並みの保存に奔走しました。
作風は「キリっとしていて繊細」、人柄が現れています。
七代目 原田誠
僕の父です。
小さいころから、人形師になることを使命とされていたため、九州産業大学造形短期大学部を卒業後、1972年から津屋崎人形師となります。
半世紀、50年人形師ですね。
作風は「おおらかで自由」、人柄が現れています。
八代目予定 原田翔平(筆者)
人形師6年目のひよっこです。
その他の津屋崎人形師【現在は閉業】
原田半蔵人形店
2018年後頃まで製作されていましたが、ご夫妻で高齢者施設に入所されていて、現在は閉まっています。
原田彪さんは小学校の校長先生までされていたので、福岡では教え子も多いです。
土人形だけでなく彫像などもされ、津屋崎を美術でリードされていた方です。
津屋崎の公園や施設などには、よく半蔵さんの作品が飾ってあります。
江戸時代(明和5年)から福津市の工芸品として引き継がれてきた歴史・伝統・技術により、福岡県観光連盟会、伝統的工芸品産業振興会等の指定を受けています。
干支飾りが平成5年の年賀切手図案になりました。
初代半兵衛より代々「半」の字を襲名し、原田半宗さん(原田彪さん)が6代目になります。
2枚型で作るので、単純な形の人形が多く、色彩は原色を用い、明るい人形が多いのが特徴です。
土地柄海に関した人形から始まり、雛人形、節句人形、干支人形、土鈴、もま笛など種類が多くあります。
日展彫刻部門に出品し、日展会友(入選10回以上)でもあります。
福津市商工会HPより引用
原田三右衛門
昭和五十八年没。
昭和期に長崎県の壱岐島の唐人神神社の授与品などを多く製作しています。
男根崇拝や、夫婦和合などのモチーフを作られることが多く、今も骨董品としてネットでたま~に流通しています。
歴代の津屋崎人形師の中でもかなりワイルドな逸話が多い方で、作風に現れていますね。
まとめ
実は、曾祖父ー祖父、祖父ー父のラインで仲が悪く(笑)、先代の津屋崎人形師に関する話などはあまり語り継がれていません。
その中で、学者肌の祖父が資料を残してくれていたことが、津屋崎人形のルーツを語る上で大きな助けとなっています。
また、250年続いたのは家系図には載っていない、歴代の奥様方の苦労や努力があったからこそ、というのは確実です。
まだまだ僕も良く分かっていないことも多いので、新しいことがわかったら追記していこうと思っています。